昭和五十一年十二月二日 朝のご理解
                               松永享四郎

ご理解第二十六節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げて居るぞ。日に日に生きるが信心なり。」


 大変難しいご理解ですね、このご理解は、又、頂けば、又、大変限りなく深いご理解ですし、死ぬるにも連れがいろうがとか、日に日に生きるが信心と云う事になってくると、大変難しいと、やはり、自分が一人で死ぬのは嫌だからと云うて、無理心中なんかする人があるのは、やはり、一人で死ぬるのは淋しいのでしょうね、もう本当に迷惑千万な事である。
 信心でもそうです、皆が逃げておるぞと云うのは、そう云う意味じゃないかと思う、同時に一人信心せよと云う事、これも只、一心に誰が参ろうが参るまいが、信心しようがするまいが、自分だけ所謂信心する、けれども人が、よく考えて見ると一人も随いて来ていない、と云った様な信心では困るですね。
 もう後から連れはいらんのだけれども、ぞろぞろ随いて来るごとならなければ嘘です、一人信心すると云う中にはね、どうも、唯我独尊的な事になって来る、自分だけが偉くて、他の者はつまらん、まあ、本当、唯我独尊と云う様な意味じゃないかも知れませんけれども、そう云う時に普通は使いますよね、所謂ワンマン的なと云う時に、唯我独尊的なと、こう申します。
 本当は、もっと仏教のお釈迦様の事を云うたのでしょうから、そりゃ、もっと深い意味があるのでしょうけれども、一人信心せよの中には、どうもそう云う傾向がある、云うならば、人が随いちゃ行かれん、もうあの人の信心には、そばにや寄られん、、一人信心せよと云うところには、もう愈々有り難い勿体無い、そして、その余香に潤いたいと云う人達が、連れはいらぬと云うても、随いて来なければ居られないものが、出来なければいけない。
 信心に成るほど連れはいらぬ、あの人がお参りしなさるなら、私も参ろうと、云う様な事では、まあいけないと云う訳です。
 私は、今朝の皆さんのご祈念をここで聞かせて頂きよって、眠気の来るごたる感じがしました、皆さんも、眠り半分で上げなさったとじゃないでしょうか、ね、あんまり暖房が効きすぎて、私は、昨日、高橋さんに云うたんですよ、ここで、暖房の上に、スト-ブをあんなに入れてから、もう、本当一生懸命大祓い上げるなら、汗が出るですもんね、ちっとは冬だから、ちっとは背中がゾクゾクする位なところで上げなければ、一生懸命の大祓は上げられません、ちゃんと、うっついて眠ってしもうとる、私は、こう云う様な場合にはです、本当に一人が一生懸命に上げると、それにつれて皆が、一生懸命か、こう………
 竹内先生が、本部から帰って来た当時、もうそれこそ、割れ鐘の様な大きな声でやるもんですから、他の者が、もう全然あんまり大きな声でやるから、一人で上げるごたる感じになって、いけんから、私が少し中庸にしなさいと、あんまりそれこそ、唯我独尊で行くもんですから、他の者がついちゃいかれんと云うて、なら、此の頃のごたりゃ、もうあれは難しいのでしょね、大きな声なら、大きな声、中庸と云うのは出来んのだろうか、発声法の稽古が足らんのだ、やはり、この本当に底力のある、そげんがんがん響かんけれども、底力のある、じっと目をつぶって、そう云う大祓を聞いておると、それが、有り難くなって来るです。 聞いておっただけでも、それがもうあんまり一生懸命上げよると汗が出る、と云うて、そろそろやいよると、眠気が来ると云う様な感じの、今朝のご祈念はそんな風に、私は、ここでそんな感じでしたね。
 これは連れがいらんじゃない、本当にやはり芯になる人が、ね、まあ何と云うでしょうか、いわば底力のある力のある声で、それがもうお広前全体に、調和していく様な大祓を、所謂大祓信行でも、でなからなければ有り難くない、自分で、自分の声に聞きとれる様な感じの、しやしませんか、一生懸命上げて、ひのおらびして、上げるのじゃない、それこそ、心の底から、じっと云うなら良い声が出て来る、自分で自分の声に聞きとれる様な、聞きとれる様に、云わば有り難くなって来るのです、だから、大祓でも、有難うなる様な、大祓じゃなからにゃいかんです。
 云うならば、生き生きとしたものがない、今日のご理解の最後にあります、日に日に生きるが信心なり、もう、今朝は皆さん、第一歩から、半死半生の様な感じなんです、やはり工夫が要るです、今日は、私は、この二十六節を断片的に、まあ聞いて頂きました、信心に連れはいらん、と云う事、一人信心せよと云う事、信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうがと云う事、又は、皆が逃げておると云う事、日に日に生きるが信心なり。
 もう本当に日に日に生きる信心、その第一歩、朝のご祈念にです、眠気のつく様な、大祓を上げて日に日に生きるが信心なりと云うて、信心が身につく訳がありませんよね、どんなに有り難そうに、ご理解を例えば頂いておってもね、もう初めで失敗した、だから、私は思うのですけど。
 金光様の信心は、朝のひと時というものを、本当に大事にせなければいけないと云う事です、だから、朝の一時間は、もう昼の三時間にも匹敵する、いや、それ以上のね、ものがあるかも知れません、朝のいわばご祈念の時間に、眠気のつく様な事ではいけない、此処の様に暖房が効き過ぎるて、大きな声を出すと汗が出る、まあ、汗どん出て、す-っとすると、風邪どんひいちゃならんけん、と云うて、そろそろ上げよんなさる感じですよ。
 どうですか、皆さん、皆さんは判らんけど、此処で聞きよると、よく判る、今日は気合が入っているな、今日はちっと抜けとる、今日は第一暖房が効き過ぎるのが、原因じゃったか知れんけれども、日に日に生きるが信心、これは、厳しく云うと、日に日に死ぬるが信心なりと云う事なんです。
 自分と云う、いわゆる、自分の過去と云うものを振り捨てて行くと云う、そして、新たなものが生まれて来る、だから、新たなものが、生まれておるか、どうかが、朝のご祈念に感じられない、今日もお生かしのおかげを頂いておる、有り難いそう云う、なら朝の雰囲気の中にみなぎって行かねば、いけないです。
 過去の自分と云うものを振り捨てて、云うなら昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しむ、と云う様なです、所謂、過去の自分と云うものはもう無くなって、改めて、今日お生かしのおかげを頂いておる事に喜びが感じられるところから、第一歩が始まって来る。
 一昨日でした、ここで、一生懸命修行さして頂いておる、岩井千恵子さん、来年学院に行く予定です、親一人、子一人で、子供を里に預けて、そして学院修行をさして貰うておった、非常に一途な人ですから、思いつめたら、もうそうせなければおられない、と云うて教会修行に飛び込んで来た。
 私が、朝の3時半に出る時、私には、何も関係ないですけど、いわば金光様のお出迎えと同じ事で、それで、金光様は得をしなさる訳ではないのですけど、やはり、皆が出らずに居られないから、お出ましを拝む様なつもりでしょう、こちらへまいりましてから、3時半にここの廊下にぴたっと、それこそ、廊下に頭をすりつけて、私の出を拝むと云う意味でしょうけど、私は、拝まれたからと云うて、そこに居って貰ったからと云うて、私が得する事でも何でもない、勿論、自分の一つの修行と思ってすると云う位な事を、一日も欠かさずやると云うのですから、大抵の根性がなからねばいけません。
 朝どんなにしても、3時に起きねばいけんでしょうね、お部屋のお掃除、今は、暖房を入れたり、私共が此処に出て来る時には、襖がこうちょっと開けてある、と云う位な信心を頂いとるにも関わらず、一昨日、先生私はもう駄目ですとこう云う、とても私は此処には勤まりません、とこう云う、だから、私は、もうそう云う勤まらん様な者が、勤めたところで、この修行が出来る筈はないから、ああそうね、としか云わんのですけれども、どう云う事で勤まらんと思うのかと、人間関係、又は、此処の修行がひどすぎる、そげな事じゃない、只、私は、いつも聞かんのですが、一昨日だけはそれを聞いた。
 ああそう、あんたが此処で勤まらんごたるなら、駄目だから、それは帰ったらよかろうと、まあ云う訳ですから、その日だけは、私は聞いた、何か、女の人ですから、特に人間関係やら、問題がある様な事があるから、此処ではまず本当に無いですね、これだけ沢山居りますけど、結局信心になっているからでしょうから、……
 どう云う事で、もういかん、もうたまらんと云うのを聞かせて頂いたら、もう兎に角、子供の事を思い出しましたら、もう子供と、例えどげな事になっても、子供と二人暮らしたいと、こう云うのです、人間的にはね、ホロッとせんでもないけれども、けど、私は、一喝しました。
 あんた、馬鹿じゃないかと云いました、私はその一言でした、その後でまたおかげを頂いた時に申しました事でしたけれども、私達はいつも子供を犠牲にする、人が助かる事の為なら、犠牲にして良い、といつも思うとります。
 もう、椛目時代でしたけれども、高校の試験の時でした、沢山の高校受験のおかげをお願いせんならん、丁度、若先生も一緒に高校に入試のおかげ頂く事になっていましたけれども、その時、私は例え、家の息子は出来んでも良いから、他の処の息子たちは一つおかげ頂きます様に、と云うお願いしました。
 そしたら、本当に皆通りましたけれども、それこそおかげ頂いて、云うなら力以上の学校へ入学しましたけれどもね、家の若先生だけは落ちたんです、だから、勿論私立に参りましたけれども、落ちた、その時に神様にお礼を申さして頂いとりましたら、お芝居に「天神記」と云うのがあります。
 若い方達は知らんかもしれません、梅王丸、松王丸、桜丸と云う3兄弟が、菅原、管相丞の家来です、天神様の家来です、3人3様に忠義を尽くすと云うお芝居です、その一番有名なのが、松王丸が、管秀宰と云う、管相丞の子供の首を打って、役所に出さなければならなくなった、その検死の役が松王丸なんです。
 寺子屋の段です、そして、そこへ検死のやって参ります、それこそ大変な入り組んだ良い芝居ですが、結局は自分の子供を寺入りさせて、そして、この子供を身代わりに立てて呉れと云わんばかりに、自分の子供を寺入りさせるところでございます。
 源蔵夫婦が、所謂、寺子屋の師匠夫婦がです、そう云う心とは知らず、けれども、山家育ちばかりで、どれを身代わりにして良い様な子供は一人もいない、そこへ、たまたま品の良い可愛らしい息子が寺入りをして来た、と云うので、夫婦はもうこれを犠牲にして、主人の身代わりに立て様と云う。
 松王丸は自分の子供をどうぞ、これを身代わりに立てて呉れと云わんばかりに、寺入りさせたんです、そこんところのいきさつがあって、所謂、首実験の時に素晴らしいお芝居の雰囲気が出るお芝居なんです。
 そして、自分の子供の首であったのを見て安心する、それこそ、伜が役に立ったぞやと云うて、夫婦が喜ぶところがありますよね、それが、あとで判って源蔵夫婦があとで判って、本当に今の時代の人にはどうも意味が判るまいと思われる位な感じのお芝居ですけれども、信心させて頂くとです、そう云う心が出来れるから不思議です。
 自分の息子は落ちても構いませんから、どうぞ、ほかの信者の子弟達が、一生懸命願うとりますから、合格のおかげ頂きます様にと云う事であった時にです、本当に落ちた、その事をお礼お届けさして頂きよったら、所謂、天神記の寺子屋段を頂きました、云うならば、そこは、忠義によって、名は末代までも残る訳でしょうけれども、私の場合は末代までも頂けれる、云うならば、それによって、お徳を頂いた様な力を頂いた様な感じが致しました。
 信心と云うものは、本当に自分でも想像がつかない、考えがつかないほどしに、心が進展していくものです、それには、例えば今日のご理解を、全部訳は判らんなりに、今日は部分的に聞いて頂いたんですけれども、これをひっくるめて申しますと、大変難しい、難しいいけれども、信心には誰が信心するからとか、とにかく、一生懸命、われ一人ででも、信心しなければならないけれども、それがややもすると、唯我独尊的なものになって、人がそれこそついて来られん様な、信心では、天狗が出来るだけであります。 天狗になったら、おかげ落します、その天狗にならず、云うならばと云うて、人が参るからとか、参らんからと云う様な事で動揺する様な信心ではない、その辺の中庸を行くと云うものが、大変難しいと思います。
 今日の私は、皆さんの云うならば、暖かすぎて、どんどんとなってしもうちから、そして、朝のご祈念に、気合も何にも入ったもんじゃない、もう聞きよってから、かえって有り難くなくなる様な感じの大祓を聞きながら、今日はそんな事を断片的に、この二十六節から感じた、どうぞ、日に日に生きるが信心なりと云う事は、過去の自分というものを捨て切って、過去の自分を振り捨てていくところに、新しい世界があるのです。
 そこに、初めて日に日に生きるとは、こう云う事だと云う事が判ります、生きると云う事に対して心の底からお礼の申し上げられる、その喜びが朝のご祈念、云うならば、朝のお礼に、お勤めになって来る、そこから、今日一日の第一歩、今日が始まる。
 同士嘆きの様な信心では駄目、一人だら-っとしとるから、皆もだらっとなると云った様な事では、駄目、フッと気が付いて、今日はご祈念は気合が入っとらん、と云うてです、誰か一人がシャンとした大祓を上げると、ハッと気が付いて、それに、皆がついて来る様な信心をさして頂きたいと思う。
 例えばどんなに修行さして頂いとる時でも、本当に、相手にじゅつなかろうごたるものが、与えきらんと云う様な信心では、神様に通じよらんと思うても間違いないです、ああよか修行しよんなさるのと云うたっちゃ、ほんにじゅつなかろうと云う様な修行しとる方があります。
 修行する時はどう云うじゅつない時であっても、周囲の者が、傍の者が、元気が出る様な、もうあの人に続けと云った様な、生き生きとしたもの、生き生きとした喜びが心に頂いて行ける様な、信心でなからなければいけません。
 連れは要らんと云われるけれども、人がついて来なければおられないと、云う程しの信心を、一つ目指さなければいけません。      どうぞ。